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屋上に散らばった自作の小道具を片付ける映画部の少年は、父親譲りの八ミリカメラで映像を撮る。「映画監督は無理」「じゃなんでこんな汚いカメラで撮るの?」「うーん・・・僕らの好きな映画とどこかで繋がってる気が、ほんのちょっとね、するときがあるから」

親友であるはずの桐島に繋がらない電話。取り出してプッシュすればいつだってその向こうにあるはずの友達の存在。ポケットの中に簡単に収まるユニヴァース。たとえ友達が出なくても、友達のいる世界にいま自分は繋がっている。

生まれてきたとき、誰がわたしを見ていたのか覚えていないように、死んだ先もまた、誰が自分を見ているのかわからない。胎児と電話で話せないように、天国とも電話では話せない。おんなじ?いや違う。確実に違わない?胎児には会えるけど、天国の母には会えない。いや、同じだ。母と暮らした。母に会った。母が私に会った。

そう。桐島はクラスにいた。桐島は自分を知っていた。桐島と自分は繋がっていた。

たった今がどんどん過去になる。過去も未来も天の父から見たら、オムニバスのドラマだ。確実な繋がりなどない。「どこかで繋がっている気が、ほんのちょっとする時がある」だけだ。過去と現在と未来とが「ほんのちょっと」繋がっている。そんな気が「ちょっと」する。それだけのことだ。それだけだからこそ、その先にあるはずなのに見えなくなる宇宙が切なく愛おしい。

そんなことを思った。いい映画だった。

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